令和3年6月27日
第139回 ホリスティックフォーラム レジメより
須田 志保美(アーティスト・NPO法人いずみの会理事)
私のがん体験記を書くことになって、何を書こうかと迷います。
私の体験などあまり参考になるとは思えません。さて、困りました。
最近がん治療の進歩は目覚ましい。少し前に闘病した人の話など参考になりません。有名なスポーツ選手やテレビ関係の人ががんの闘病から復帰して、「がんは不治の病ではない治る病です」というようなことを二人とも言っておられました。
ある意味その通りなんでしょう。
私は9年前に乳がんステージ2B、4年前に大腸がん肝転移ステージ4の多重がん経験者です。今だったら、あっという間に治っていたのかな?
だったら誰もいずみの会などの患者会など見向きもしないと思います。
相変わらずがんで悩む方は大勢みえ、みなさん悩み、落ち込み、苦しんでみえます。確かに治療の方法は日々変化していて、私が経験した治療法とは今は全く異なるのかもしれません。
一年後には今の治療法も全く変わっているのかもしれないです。
いずみの会に最近入会される方はほとんどの方が転移や再発をされた方だと聞きました。
私は多重がんで、転移でも再発でもなく2度目のがんも原発がんですが、2度目のがんが発覚した時にいずみの会に電話をしました。
最初のがんが平気だった訳ではありませんが、2度目のがん宣告の方が2度目であるにも関わらず精神的なダメージ、ショックは始めのがんより何倍も大きかったです。
初めのがんの時はとても忙しく働いていました。
会社の健康診断で発覚、即病院へ。初診で間違いなくがんと宣告されました。
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詳しい検査の結果、早期なので手術も簡単ですよと言われほっとし、即アクセスの良い病院を紹介してもらい、即会社の夏休みを利用して手術する手続きをしました。
あまり深く考えずにあっという間に。とにかく仕事に穴を開けないように誰にも知られないように、夏休みに2日足した休みをとって何食わぬ顔で出勤しました。
リンパを取ったので手が上がらないことが不自然なので、簡単な持病の手術をしたと伝えました。おそらくその頃の会社の人は誰も気付いていません。
出張の多い仕事で中国出張もしょっちゅうでした。一人で行っていたことが幸いしました。手術後は玄米菜食と決めましたので出張中の食事は持参。現地の方に食事に誘われないよう夜の食事時間を移動の時間にあてました。しかし、何回かは一緒に食事せざるをえませんでした。ニコニコ会食をし、一人になると毒を食べてしまったと落ち込んだものです。
その頃、食事が美味しいとは全く思いませんでした。私はかなりの体力、気力もあるので絶対大丈夫と思っていました。
手術はしましたが、その後の放射線、抗がん剤、ホルモン療法は自分の判断でやりませんでした。それが良かったのかどうかは分かりません。2度目のがんの時、もしちゃんと治療していたらならなかったのかと後悔しましたが、どうも私の場合は関係ないようです。
2度目のがんの発覚、
乳がんの手術後、定期検診はきちんと受けていました。いつも「異常ありません」だったのにある日、がんマーカーに少し動きがありました。数値としては規定内でしたが心配した主治医が6ヶ月毎の検診を3ヶ月後に、そして、3ヶ月後の検査でマーカーの数値は跳ね上がりました。
微妙な動きを見逃さなかった主治医には本当に感謝です。そして、即造影CT検査を受け、大腸がんであり、肝臓にも転移していることが即座に分かりました。
最初のがんの時は、とにかく早く治そうと、あっという間に事を進めましたが、2度目のがんは精神的なダメージが強すぎてしばらくぼーっとしていたように思います。
正に目の前真っ暗。
その当時、続けていた玄米菜食をきちんと実行できていませんでした。振り返ってみると私にとっての玄米菜食はがんを治すためだけ、めんどうな時は出された他の物も食べる。ストレスで甘いものに手を出す。楽しんだり感謝したり、美味しいと思ったりする感情はなかったと思います。
「しまった!なんで食事を徹底しなかったんだ。」と後悔しました。仕事を辞め生活も安定していなかったことも不安を煽りました。
誰に相談したらいいのか分からず、いずみの会に何度も電話をして相談にのってもらいました。
乳腺外科の主治医はとても優しかったのに新しい科の先生とは馬があいませんでした。診察の後、看護師さんに伝えたところ「分かりました。次回は違う先生に診ていただくようにしましょう。」と言っていただき、笑顔が優しい主治医に巡り合い今があります。
(後で分かりましたが最初のドクターも主治医も同じチームでした。主治医が違うだけで治療法は同じだと思います。)
手術をする、しないなど散々迷いましたがこの先生なら大丈夫って思えたのです。かなり長く迷っていたのでがんは進行していました。まずは原発の大腸がんの手術です。思ったより大変じゃなかった。早く治したいから廊下を何周も歩き、予定より早く退院できました。
その後の肝臓の手術はまだ迷ってました。原発を取ると自然に治ることもあるらしいというのを聞きました。肝臓の手術の方がかなりたいへんなんだと聞いていたのもありました。
結局手術を決心して入院、手術前の説明を聞いたらものすごく怖くなりました。不安で不安でたまりません。肝臓を2カ所切るのですが一カ所は奥の方なので胆嚢を取ってしまうというのです。胆嚢は無くて影響はないそうですが、かなりの大手術になります。
歯が痛くなってきました。歯が痛いので掛り付けの歯科医院に行きたいと一時帰宅をさせてもらうことにしました。
それは嘘でした。その時には入院に持ってきた荷物全てをキャリーケースに詰め込んで、もう病院には戻らないつもりで病室を後にしました。
家族にそれを伝えると、自分が思うようにすればいいいと言われました。そうなんです、自分の人生、自分で決めるしかないのです。
2日後、また重いキャリーケースをコロコロ転がして病院に戻りました。もう後戻りはできません。3度目の癌手術を受けることとなりました。
乳がんの時も原発の大腸の手術の時も術後の経過はとても良く、私は体力も気力もあるから乗り切れる!と臨んだのですが、それがそんなに甘くはなかったのです。
でもそのおかげで私は自分を180度変えることができ、人に感謝すること、生きていることの素晴らしさを実感できたと思います。初めのがんの時にそれに気がつければ2度も3度も、実際には5度も手術をすることはなかったでしょう。そして、もし、肝臓の術後の経過も良かったら今頃また違う
がんになっていたかもしれないと本気で思います。
と、今だから言えますがその時はどん底でした。肝臓の手術は12時間ほどかかったのだと思います。8時半に病室を出て戻ってきた時は夜の10時を過ぎていました。ちゃんと記憶にあります。さあ明日からがんばるぞと思っていました。明くる日の意識はちゃんとしていました。ちょっと歩いたりしてみました。大きな手術をするとまだ麻酔を付けていますから案外手術したての方が平気なのです。しかし、2日後くらいから痛みが増す一方です。麻酔が切れたからではなかった。あらゆる痛み止めを点滴しても全く効かない。痛みで気絶するぎりぎりの感覚が続きました。長い時間叫んでいたと思います。
CTを撮りに行けと言われますが、痛くて全く動けません。時々痛みが引く時がありやっとの思いでCTをとり原因が分かりました。
身体の中に胆汁がもれ出ていたのです。2つの処置がされました。CTの機械に出たり入ったりしながらお腹から胆汁のある所に管を入れる処置をしたら、体が楽になりました。意識のある中でのことでしたのでドクターの手が神の手に見えました。
辛かったのは鼻から管を入れる処置。こちらは麻酔をかけてでしたので目が覚めたら鼻から管が出ていて痛いし邪魔だし。これで胆汁を出さないとまた再手術と言われかなりしゅんとなりました。暗く悲しい入院生活が続きます。痛くて眠れなくて昼夜逆転、その頃は大部屋に移っていたので他の方たちが昼間動かれるので昼間も眠れない。一日中不機嫌です。なぜ自分だけがこんなめにあうのかと、暗く自問する毎日でした。
気持ちが変わるきっかけは太陽でした。
夜に眠るという普通のリズムは痛みでどこかにいってしまいました。その頃6月に入っていたと思います。日の出が朝の4時台でした。少し動けるようになっていましたが肋骨を折って手術しているのでベッドに座る、横になる、起きるという動きだけでも小一時間かかるので座るとしかたなくずっと座り続けることになります。横になるより立ち上がる方が楽だったので明るい廊下に出てみました。看護師さんたちが忙しそうに行き来しています。まだ4時なのに?看護師さんの仕事に時間は関係ありません。
大きな窓に上ってくる太陽が見えました。思わず祈りました。
少し経つと食事の配膳の方達が大きな食事の入った入れ物を押して廊下を通ります。
長い間私はこの音が苦痛でした。また食べなくてはならない。食事の時間は辛かった、長い間ほとんど食べることができなかったし、なんて不味い食事なんだと思っていました。
こんなに朝早くから働いてくださっているのに私はなんて罰当たりな考えだったんだろう。それから朝の太陽を廊下の大きな窓で見るのが日課となり、夜眠れるようになり、自分の気持ちが落ち着いてきました。
私ががんになったのは誰のせいでもない。自分のことしか考えない、今までたくさんの人の心を傷つけて生きてきた自分の心が引き起こしたことと理解しました。そんな私のためにたくさんの人たちが力を貸してくれている、自分が情けなくて泣きました。それを境に私が思う人という存在の概念が変わりました。感謝すべき人がたくさんいることに気が付きました。
長い入院になったので肌寒い春が真夏になっていました。
退院はしたものの歩くこともままならない状態。自分は元の身体に戻るのだろうか?
通常の仕事には戻れない体の状態はかなり長く続き、気を緩めると今も出てきてしまいます。現在はちゃんと管理していれば大丈夫です。
母の提案で最低一年は何もしないでゆっくりすることにしました。いずみの会主催の講演会に行くのが楽しみになっていました。寺山心一翁先生の講演を聴き、私に欠けていたものはこれなんだと直感し、すぐにワークショップに参加しました。参加者の人たちと一緒に歌ったり踊ったり。自然の中を歩き、日の出前の山道を歩き、鳥の声を聴き、日の出を見る。素晴らしい体験でした。長く忘れていた感情を思い出しました。
冒頭でがんの治し方は目まぐるしく変化すると書きました。手術や治療の方法は大きく変化しますが根本は心だと確信しています。がんの原因は人それぞれ違うと思いますが心です。自分の心治しが必要なのです。(あくまで私の考えです)
その後、講演会をきっかけに患者会の合唱のサークルに参加しました。
すっかり忘れていたのですが私は子供の頃歌が好きでした。童謡歌手になりたいと思っていました。小学校の時、学校に合唱クラブがなかったので友人と作り、すぐに多くの仲間が集まりました。きっと歌うことは人にとって大切なことなんだと思います。
がんになった頃、ずっと歌が好きだったことなど忘れていました。
仕事のつきあいで行かなくてはいけないカラオケが嫌いでした。歌=仕事、嫌だなあという感情しかなかった。
合唱サークル「めぐみ音」の練習は今の私にとって楽しくてしかたありません。子供の頃合唱クラブで歌っていた時と同じ感覚です。
そして、なんと、プロのオペラ歌手である先生に指導をしていただいています。レッスンの度に目からウロコの経験ばかり。中でも口角を上げて笑顔をキープして発声すると気持ちが晴れ晴れする、声が響く、周りの空気が変わる、観客に感動を届けることができる。と教えていただいた時は嬉しくて嬉しくて、それからますます歌うことが楽しくなりました。
家で歌えば寝込んでいる母もベッドの上で歌い出す。コンサートでは見ず知らずの人から「感動しました。ありがとう。」と声をかけていただけるようになったのもこの頃からです。
2度目のがんの術後4年、再発、転移はなしの私にとって一番怖いのは、また新たながんになることです。
もう二度とがんになりたくないと、模索し実行したことでいつの間にか自分が変わったのですが、4年前の私と今の私は180度性格が違うと思います。
同じ仕事に戻ることは辞めました。当然周りの人も変わりました。以前は足の引っ張り合い、愚痴や悪口、陰口を言う人たちが周りに多くいました。私もその中の一人でした。
今は全く違います。時には嫌なこともありますが4年前のことを思い出せばなんでもありません。
自分自身が微笑んでいたらよく似た人が集まってくるのだと信じています。
そして本当に気持ち次第、感謝をすると感じ方も変わるということも書かせていただきます。
食事でそれをもっとも感じました。病院の食事、乳がん、大腸の時の入院時も食事が美味しいなんて全く思いませんでした。
大腸の時は水すら飲むのが辛かったくらいですから食事は拷問のようでした。しかし、心が変わった瞬間、感謝の心が芽生えた時から食事自体がありがたく、私に届くまでに関わる全ての人に対してありがたいと思うようになってから病院の食事はとても美味しいことに気がつきました。
がん手術の退院から半年後に腹壁瘢痕ヘルニアで入院した時は食事が楽しみでしかたなかったものです。
ある日の検査の待合室でこの病院の食事は美味しいと言っている人がいましたので、実際私のお世話になっている病院の食事は美味しいのです。
腹壁瘢痕ヘルニアというのは手術の後、筋肉がひっつかない状態でそこから内臓がポコンと出てしまう状態でした。痛くないのですが体力があるうちに治すことにし、そこにシートを入れて出てこないようにしています。がんの手術をした時に食事に感謝をして栄養をきちんと取っていたらこうならなかったのかもしれません。今は気持ち次第で物事が変わるということを学ばせてもらったと良い経験と思っています。
術後一年ゆっくりした後、同じがん患者である母の介護をすることになりました。外で働いていたらすんなり家で介護できなかったかもしれません。母も私もこの展開には感謝したものです。
母が亡くなる前にいろいろな教訓を残してくれました。人と同じように生きる必要はない、人に迷惑をかけなければ自分の思うように生きるべきと。死を前にして、自分もできる時にそうしたかったと話してくれました。
今の私が心がけていることはなるべく体に対して無理をしないこと。良質な睡眠、感謝して食事すること。できる限り日の出の時間に散歩をすること。好きな歌を歌うこと。笑うこと。楽しむこと。感謝をすること。そして温めることも、真夏でもカイロ持参しています。
私のモットー
「笑顔でわくわく何より感謝」
ちょっと嫌なことがあっても口角上げて乗り切ります!
人それぞれ違うと思いますが何か参考になればと長々と書かせていただきました。自分自身を見つめ直すことができました。
ありがとうございます。