「がんは心のしこり」 YMさんの手記3

「がんは心のしこり」 YMさんの手記3

実は最初は、「検査結果はお見せできません。」と言われていました。「どうしてもというなら」ということで見せていただいたのですが、このような病院の対応にも驚きました。こちらから尋ねなければ検査結果は知らされず、不本意に全摘手術を受けていたかもしれないということです。がんが無くなったことには一切触れず、再びがんができるであろうと言われ、手術を強く勧められました。「残存していないのであれば、定期検査をしながら様子をみていきたいのですが。」と伝えると、「あなたが持参した検体の中からあんなに沢山のがんが出てきたのに何を言ってるの!またできるに決まってます!!あなたでは話にならないから今度ご家族と一緒に来てください!ご家族の方が臓器摘出を強く望む場合がありますから!」と言われました。

こちらを本気で心配してくれてのことなのでしょうが、それはそれは物凄い剣幕で、私の意見は全く聞き入れてもらえず、話は平行線のままに終わりました。

それからは別の病院で定期的に検査を受けることにし、数年を過ぎた今も良い結果を頂いています。

当初は数年掛けてのんびりと自分の出来ることをやろうと思っていました。体の細胞は数年の周期があれば全て生まれ変わると知ったからです。私の場合は、取り残しの小さながんでⅠ期b1ということもあってか、幸いにも5ヶ月で治癒に至りました。誤診なのでは?偶然なのでは?と言われることがありますが、がんの検体も持参していますしやり方が違っていればがんは進行すると思います。

末期がんから回復された方の本を読んだりすると、やはり人には皆それぞれ治す力が備わっているのだなと強く思います。生活習慣を改めることが大切ですが、心持ちを変える事もとても重要だと感じました。

「がんは心のしこり」

自分の過去を振り返り、原因をつきとめました。それは自分の境遇を受け入れられずにいたことだったと気づき、考え方を変えて全てを感謝に変えていくよう努力しました。そして、病は気づきです。「今の生き方をしていると持ちませんよ」と、気づかせてくれるありがたい警告だと思いました。

どんな境遇に置かれたとしても、その状況や周りの人に感謝。「生きている」のではなく「生かされている」ことに感謝。そしてがんに対しても「敵だ」と闘おうとせず、気づかせてくれたことに感謝し、癒えていくよう声をかけながら過ごしました。

そして人も自分も許すこと。毎日自分の体に「ごめんね、私が治してあげるからね。」と謝り、全てを許すようにしていきました。体の声に耳を傾け、自分がどうしたいのかではなく、「体はどうして欲しいのか」をよく聴き、癒やしてあげることがとても大切だと思いました。

これらの気づきが、これまでの生き方や考え方を改めることにも繋がりました。寿命以上に生きることは出来ませんが、「与えられた寿命を縮めるようなことはしてはいけない」という謙虚さを、これからも持ち続けて生きていきたいです。

私を病だと知りながらも見守り、支え続けてくれた家族や水野先生。気づきのきっかけを与えてくださった化粧品会社さんや先生方に改めて感謝申し上げます。

この体験が、同じ悩みを持っていらっしゃる方の目に留まり、少しでも励みになれば幸いです。治癒の4年後、“ホリスティック”という言葉を初めて知り、そしてその定義がまさに病のときに考えていたものと一致していたことに気づきました。

「人は治るようにできている」 YMさんの手記2

「人は治るようにできている」 YMさんの手記2

そんな時、ふと肌荒れで困っていた頃の事を思い出しました。ある化粧品に出逢ったことで、肌が改善したという経験です。薬の使用を中止し正しいお手入れをすることで、モルタルの外壁のようになってしまった肌がどんどん良くなっていったこと。これまで何の疑いもなく使用していたステロイドやアトピー薬、ワセリンに対して、初めて疑問を持つようになり、調子が悪くなればすぐ薬に頼るという考え方を大きく変えてくれた出来事でした。

「体も自分の力を取り戻せるのではないかしら」

福田稔先生が残してくださったお言葉は、「人は治るようにできている」でした。

「正しいやり方をすれば、体にも同じことが起こるのでは…。もし三大療法に頼らず治癒に至れば、私の周りの人たちに何かを伝えることができるかもしれない。自分の体で試してみよう。」そのような思いに至り、治すことが与えられた使命のように強く感じるようになりました。

改めて本を何度も読み返し、また新しい本にも出逢いました。中でも気功の水野先生から教えて頂いた、中村天風の「運命を拓く」は私の心をとても強くしました。また水野先生の存在と気功施術は、大きな支えとなり新しい世界を広げてくれました。そしてさらなる知識と新たな気づきをいただくことになったのです。

初めて心と身体の仕組みを知ることになり、真っ先に恐怖というものを手放しました。この恐怖や不安というものが、一番治癒の妨げになるからです。恐れという感情が一番恐ろしいと知ると、手放さない訳にはいきません。命がかかっていますので。

「シクシク泣いて悲しんでいる場合ではない!」と気合が入りました。

そして病院には行かず自分で出来ることをひたすら続けてみようという大きな決断をしました。周りには理解してもらえないと思ったので、家族以外に病気の事は話しませんでした。実際家族にも反対されたのですが、自然治癒について説明し、全て自己責任で覚悟を決めているということを理解してもらいました。そして病人扱いをしないでほしいと思いを伝えました。もし途中でがんが進行してしまっていたら、再度考え直し別の方法を選択すれば良いことであり、どうしてもダメだった場合は手術することも範疇にありました。

「よし、出来る限りやってみよう!」

方向性は決まりました。得た知識や理論を軸とし、信念を持つ。治った時の自分を思い描く。それが心の支えになりました。それからは恐怖を手放したおかげで、不眠症気味だったはずが毎晩ぐっすり眠れるようになりました。

それから約5ヶ月。告知以来初めて大学病院に検査に行きました。もし進行していればやり方を改めなければいけないので、経過を知る必要があったからです。

そしてその1週間後、検査結果を聞きに行きました。自分の番が回ってくると、真っ先に医師から手術や手術前検査の日取りを決める話をされました。「やっぱりダメだったか…」と思いながら、「先日の検査結果はどうでしたか?」と尋ねると、PC画面をこちらに向けてくれました。そこには、『癌の残存は認めません』とありました。

「消えた…? うそっ? …ほんと??」

検査結果にとても驚きました。こんなに早く努力の成果を得られるとは思っていなかったからです。

ですが、・・・・

続く

「私、死ぬかもしれない」 YMさんの手記1

「私、死ぬかもしれない」 YMさんの手記1

この度、会員のYMさんから、貴重な体験談とアドバイスをいただきました。5回に分けて連続シリーズでご紹介します。(最終回は編集者からのコメントになります)また、別途「おすすめBOOK」でも推薦の本をご紹介してゆきます。

毎年子宮頸がん検診を受けていましたが、年々良くない結果をもらうようになっていました。手術をしないで治そうと努力してきたつもりでしたが、とうとう高度異形成という結果が出てしまい、「このままではがんになる可能性が高いので手術をするように」と医師から説明がありました。とてもショックでしたが、勧められた子宮頸部円錐切除術を受ければ、「もう気に病むこともなくなるだろう」と、複雑な思いで手術を受けることにしました。

告知の3年前になりますが、長い闘病生活を続けた母が他界しました。幼少の頃から母は精神を病んでおり、当時は良い思い出など何一つないと感じていました。穏やかな日などたった一日もなかったからです。過酷な日々の中、気づけば私は心身が衰弱し、感情が無くなり笑い方も分からなくなっていました。その為、そのような母を看ることは本当に苦痛であり、亡くなった時は悲しみよりも「やっと解放された」という思いの方が上回っていました。

が、その直後から、今度は高齢の父が入院手術を繰り返すようになり、車椅子生活になってしまいました。父も感情が激しく怒鳴り癖があり、癇癪を起さない日はありませんでした。てんかん発作の持病がある知的障害者の姉もいます。全て投げ出したい気持ちでしたが見捨てることも出来ず、自分を奮い立たせる毎日を送っていました。長く先の見えない家族のケアに心身疲れ果て、家族を車に乗せて移動している時は、対向車にトラックを見つけると突っ込むタイミングを考えてしまう事もありました。

円錐切除術当日、全身麻酔をする直前は、「術後は意識が戻らなくてもいい。もう家のことをやらなくて済むから…」 そんな思いで手術に臨んだことを今でも鮮明に記憶しています。

円錐切除術の2週間後、病理結果が出ました。そこで思いも寄らない告知を受けたのです。「摘出した中に扁平上皮癌、上皮内癌が見つかり、断端陽性でまだ取りきれず残っています。お子さんを望まないなら子宮全摘です。紹介状をお渡ししますので早く大学病院に行ってください。優先して対応してくれるはずです。部分摘出手術もありますが7~8時間を要するとても難しい手術で、40歳を過ぎて妊娠の確率が低い人は、比較的簡単な子宮全摘手術をすることが一般的です。」との内容でした。

「今日は辛い検査や手術もないし結果を聞いて帰るだけ。厄介事が片付いてスッキリして帰れる!」 そんな気持ちは一瞬で消えてなくなりました。病院帰りの景色は来た時とは全く違って見え、まるで別の世界にでも放り込まれたかのようでした。悲しみと恐怖の闇に包まれ、次から次へと涙が溢れ出てきました。

「私、死ぬかもしれない…」

その時初めて死を意識しました。

「なんて愚かな自分だったのだろう…。」

「子宮頸がんワクチン、なぜもっと早く出来てくれなかったのかしら。」

様々な思いがめぐり、また涙が止まらなくなりました。(残念なことに、現在ワクチンを打った方の中には大変なご苦労をされている方がいらっしゃいます。) そして本当に自分勝手なもので、「助かりたい!! 生きたい!!」 今度は本気でそう思う自分がいました。

私は以前、家族や友人の病がきっかけで、福田安保理論の「自律神経免疫療法」や「免疫革命」を読んだり、福田稔先生のセミナーに参加したこともありました。病気に対する考え方が180度変わり、理解していたつもりだったので、まさか今回のようなことが自分の身に起こるとは思いもしませんでした。結局わかっているつもりでいただけだったのです。

そんな自分に愕然とし、医師の言う通りに全摘手術を受けた方が良いのではとも考えました。ですが、やはり病院の治療方針に納得できずにいました。「がんの三大治療といわれるものに頼らず何とかならないものか」そう思う自分がいました。

続く

がんは生き方を問う~ものの見方を変える

がんは生き方を問う~ものの見方を変える

写真は、日の出でしょうか? 日の入りでしょうか? 夜明けでしょうか? 夕暮れでしょうか?

こういうクイズを出されると、がんの話だからきっと「生きる命の喜びを表現する夜明けだ」いや、「死に行く命の最後の輝きを表現する夕暮れだ」などと考えられることか思います。きっと皆さんのそれぞれのイメージがあることでしょう。

しかし、固定観念でしばられていませんか? 視点を変えて、クイズの答えとして、「この写真は、日の出でも日の入りでもない」とういう可能性はないでしょうか? 絶対にどちらかでしょうか?

実は、地球上には、北極圏とか南極圏とかがあって、そこでは真夏には太陽が沈まず、真冬には太陽はのぼりません。だとすれば、これが「正午の太陽」だったり、「真夜中の太陽」であることも、理論的にあり得ない話ではないのです。

図をみると、この○と+と□はそれぞれ別のものです。ところが、下の図のように一つのものを三方向からみた影絵だとすれば、この一見全く違う三つのものは同じものを表現しているということになります。つまり、物を見る視点を変えてやれば、全く違ったものが見えてくるのです。ひとつの事を見るのに、「良い」か「悪い」か、という軸だけではなくて、それに対して、90度違った方向から、あるいは斜めからみる見方というのは、無限にあるのです。

 

このような考え方を、がんについてあてはめてみたらどうなるでしょうか。がんについては、例えば「がんはどんどん大きくなって最後には宿主を殺す」といった「常識」や、「がんはとても悪いもので、見つけたら早く撲滅しなければならない」という「固定観念」があると思います。しかし、実は一面的な見方しかしていないのではないでしょうか?もっと違った角度からの見方もあっていいのではないでしょうか。

おそらく、多くの人ががんに対して持っているイメージは、程度の差こそあれ、およそ次のようなものだと思います。

・がんの本当の原因はわかっていない。つまり、確実な予防のできない病気だ。

・がんは不治の病・死の病である。そして、痛い、苦しい病気である。

・がん放っておくとどんどん大きくなり、最後には命を奪う。

・一旦原発巣が消えても、再発や転移をする。

・早期発見・早期手術が全てである。再発・転移したらもうだめだ。

・手術、放射線、化学療法(抗がん剤)で効かなければ、もう手のほどこしようがない。

・三大療法は、こわい、副作用の多い、危険な治療法である。

・だから何としてでも早いうちに治さなければならない。

およそこういった考え方で、私も医学教育を受けてきました。手術の技術や、抗がん剤は、進歩してきてはいますが、根底にある基本的な考え方は同じです。

そして、再発し末期になってきたとしたら、医療者としてすべきことは、苦痛を取り除く緩和ケア、すなわち治療をあきらめるということになります。これが現代のがん医療における基本的な考え方です。

しかし、がんは本当に憎むべき敵なのでしょうか? 本当にそんなに悪いものなのでしょうか。もしかしたら、先ほどの写真や絵のように、見方を変えてみるとまったく違ったものが見えてこないでしょうか。

おそらく多くの方々は、がんはとても悪いあるいは恐ろしいものだと考えていることかと思います。しかしこのコーナーでは、見る角度を変えてみると、実は「がんはそんなに悪いものでもないですよ」「がんは実は大きな意味と価値のあるものなのですよ」というお話をさせていただきたいと思っているのです。

 

いきたひ 生前四十九日

いきたひ 生前四十九日

長谷川ひろ子・秀夫 共著 アートビレッジ 2017年

生と死を合体させた不思議な文字は、最後のはねが再び生の最初の一画につながっている。生タヒ(いきたひ)は、生きた日、生きたい、行きたい、活きたい、往きたい、逝きたい、そして生きた灯の意味があるとか。

47歳の若さで、がんで逝った夫。それを家族で看取った妻。夫と妻、そして家族の生きざまは、死は変容であり、やがて甦るという希望と勇気を与えてくれる。